小泉八雲『茶碗の中』はなぜ途中で終わる?顔を飲んだ男と二度の来訪、語りが途切れる場所を『骨董』の原文で一緒に読み直してみようね!

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怪談を読んでいて、いよいよ相手の正体が分かりそうな場面に来た。主人公は刀を持って動く。相手も動く。その先は……。

そこで終わるのーー?!

小泉八雲の「茶碗の中」は、話の続きを期待したところで語りが途切れる作品だよ。しかも、最後のページだけが突然そうなっているわけではない。冒頭から、途中で終わる古い物語についての話が置かれている。

つまり、読む前の案内と、最後に実際に起こる途切れ方を、両方見たいんだ。顔の正体だけを探す読み方から少し離れると、なぜ答えがないまま残る話なのかを考えられる。

この記事は結末まで触れる読みもの。英語原文の『Kotto』に収められた「In a Cup of Tea」を読み、出来事を自分の言葉で整理する。日本語で読む本としては、岩波文庫の『骨董』、ISBN9784003224496を候補に紹介する。翻訳の文章や独特の言い回しは転載せず、作品内の事実と読み方の提案を分けて進めよう。

目次

お茶の顔を見る前に、冒頭の「途中で終わる話」を読んでおこう

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この作品を、主人公がお茶を飲もうとする場面から始まる話として覚えている人もいるかもしれない。でも、英語原文にはその前に、語り手から読者への呼びかけがある。暗い塔の階段を上った先で足場がなくなるような経験や、崖に沿った道が途中で途切れるような経験が取り上げられるんだ。

怪しい顔が出る前に、進んでいた道の先がなくなる。その感覚を先に置く構成だよ。物語の外にいる読者が、読み進めた先でどうなるかを予告するように読める。

ここで早々に、作品が未完成だった理由を一つに決めないでね。原文の語り手は、書き手が筆を止めた可能性をいくつも挙げる。怠けたのか、出版者と争ったのか、席を離れて戻らなかったのか、途中で亡くなったのか。いずれも確定した説明ではない。

語り手は、なぜ未完のまま残されたのかは分からない、としたうえで、例を選んで話す。この順番が大事。理由が分からないことを隠して怪談を始めるのではなく、その分からなさを告げてから、読者を一つの物語へ入れている。

だから、最後が途切れているのを見て、電子書籍のページが欠けているのでは、と疑う場合には、まず末尾の語り手の言葉まで見てみよう。原文では途中で止まったこと自体に触れ、その後で想像に関する締めがある。単に主人公の場面の途中でファイルが終わる形とは違うよ。

「で、結局どうなるの?」という問いは、読み終えた後に残る。でも、その問いが残るように、冒頭の道のたとえが用意されている。最初の段落を飛ばさず読んでおくと、最後の止まり方を作品の一部として見られるんだ。

岩波文庫の候補は『骨董』。同じ八雲の本でも、『怪談』だけを買えばこの作品が同じ形で入っているとは限らない。収録作を確認したいので、書名だけでなく目次を見よう。候補の日本語版では「茶わんのなか」という表記が案内されている。訳者は平井呈一。目次では「古い物語」の中に収録されているので、本を手に取ったらその区分から探してみてね。

『骨董』という題名で探すと、古い器や美術品の買い方を扱う別の本も出てくる。著者が小泉八雲、あるいはラフカディオ・ハーンとなっているか、出版社とISBNが一致するかを確認してね。新品、中古、電子書籍の区別も注文時に見たい。楽天で確認できた候補には中古本もあるので、状態の案内や送料を見てから選ぼう。紙で書き込みのない本を読みたい人なら、その希望に合う商品状態かも確かめてね。

最初の一回は、結末を解くための暗号探しをしなくてもいい。語り手の案内から読んで、主人公が何を試し、相手がどんな形で現れるかを追おう。次に読み直すときに、冒頭と末尾を並べてみると、途切れる場所をどう読むかの材料になる。

器を替え、茶も替える。それでも顔が消えないから次の行動になる

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本編の主人公は、英語原文でSekinaiと表記される従者。この記事では表記の混同を避け、以降は「従者」と呼ぶね。新年の挨拶に出かける主人の一行が、江戸の本郷・白山にある茶屋で休んでいる場面から始まる。

喉が渇いた従者がお茶を飲もうとしたとき、茶の中に自分ではない顔が見える。その顔は若い侍のようで、目と口が動いている。原文では、器に印刷された顔や装飾だったと結論する流れにはならない。

従者は周りを見る。でも、その顔の主になりそうな人は見当たらない。そこでお茶を捨て、器を確かめる。器は安価で、特別な飾りがある物ではなかった。

ここ、ただ驚いて立ち尽くしている主人公ではないんだね。まず周囲と器を調べている。怪しいことが起きた直後に、身近な理由で説明できないかを試す行動がある。

次に別の器でお茶を取ると、また顔が出る。さらに新しいお茶を頼んでも、顔は現れる。今度はからかうような笑みまで見せる。

器を替えた。茶も替えた。それなのに続いている。

この三つをひとまとめにして「茶に顔が出た」とだけ覚えると、従者の判断が進む段階が抜けてしまう。初めて見たときは、近くの人が映ったのか、器の模様なのかを疑う余地がある。試し直しても消えないことで、その余地が狭くなるように読める。

ただし、読者が一つ一つの試みを科学的な実験として評価する必要はないよ。作品の中で、従者がどの可能性を確かめたのか、その順番を見る読み方なんだ。お茶の温度や照明など、本文に書かれていない条件を補って現象の原因を断定する話にはしない。

顔が消えず、笑みを見せると、従者は茶を飲む。顔ごと飲み込み、立ち去りながら、幽霊を飲んだのかと思う。初めから相手の正体を見抜いていて、特別な退治の手段として飲んだとまでは書かれていない。

ここで従者の行動だけを見れば、逃げない選択をしている。でも、その選択で怪しい現象が終わったかどうかは、まだ分からない。読者は次の場面へ進まないと、飲むことの結果を見られないんだ。

あ、強気に飲んだら終わり、ではないのね……。

読むときは「見つける」「捨てる」「替える」「飲む」のように動詞を短くメモしてみよう。解説を長く書かなくても、主人公が同じ状態でずっと怖がっている話ではないことが見える。顔の変化と、従者の行動の変化を並べると、次の場面へのつながりも追いやすいよ。

夜の来訪で顔がつながる。でも、相手の説明を全部信じていいのかな

来訪場面を読み直すための『骨董』を確認する

その日の夜、従者が屋敷で当番をしていると、見知らぬ若い侍が音もなく現れる。相手は原文でShikibu Heinaiと名乗る。昼に初めて会ったと言い、従者に自分を覚えていないのかと問いかける。

そこで従者は、お茶の中で見た顔と、目の前の顔が同じだと気づく。昼の茶屋と夜の屋敷が、この認識によってつながる。読者も、場所だけが変わった別の怪異ではなかったのだと追えるね。

しかし相手が名乗ったことと、その人物の身元が確認できたことは別。従者は、なぜ屋敷へ入れたのかを尋ねる。原文には、当時の大名の屋敷は厳しく警備されていたという補足もある。来訪した侍が本物の客として通されたかどうかを、場面の疑問として置いているんだ。

相手は従者が朝、自分へ重大な害を加えたと主張する。読者が昼の場面で確認したのは、従者が顔の現れる茶を飲んだこと。その行為が相手にとってどういう害になるのかは、ここで詳しく説明されない。

え、飲まれた側から、そう言われるの?

怪談の面白いずれがここにある。従者にとっては、からかわれる状況を終わらせようとした行動だった。それが来訪者の話では、従者が加害したことになる。どちらの視点で出来事を語るかが、途中で変わって見えるんだね。

従者は短い刀で相手の喉を突こうとするが、刃は手応えを捉えない。相手は音もなく横へ跳び、壁を通り抜ける。壁には通り抜けた跡が残らない。

ここまで書かれているのを確認したうえで、その後の報告へ進もう。従者が屋敷の者へ話しても、出入りした見知らぬ人を見た者はいないし、名乗った人物を知っている者もいない。相手の来訪を、屋敷内のほかの人が同じように見た、と補うことはできない。

だからといって、本文が従者の夢だったと結論しているわけでもないよ。読者が確認できる範囲では、従者の経験と、その報告を受けた周囲の困惑が並んでいる。原因を確定する説明まで進んでいない、と整理しておこう。

翌晩は、従者が当番を外れ、両親と家にいる。そこへ三人の訪問者が来る。従者は刀を持って入口へ行き、武装した三人と向き合う。今度は勤務中の屋敷だけで起きる話ではなく、従者の家へと訪問先が変わるんだ。

三人は、昨夜来た人物の家来だと名乗る。そして主人が従者に傷つけられ、温泉で治療していること、来月の十六日に戻って相応の仕返しをすることを告げる。

ちょっと待って。前の晩は、刀が手応えを捉えなかったのでは?

ここは読み直したくなるところだよ。刀の手応えがなかったことと、来訪者が傷を負ったと家来が主張すること。その二つは本文にある。一方、幽霊の体に刀がどう作用したのかという仕組みは説明されない。家来の言葉を、語り手による確定した解説へ置き換えず、「そう告げられた」と読むのが丁寧だと思う。

来訪者が一人から三人へ増えたことに加え、次に来る時期まで告げられる。読む側は、その日が来たらどうなるのかを待つ状態になる。でも、この作品はその約束された日へ進まないんだ。

刀を振るう場面で途切れる。続きを作る前に、最後の語り手へ戻ろう

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三人の話を最後まで聞く前に、従者は刀を持って飛び出し、相手を斬ろうとする。三人は隣の建物の壁へ飛び、影のように壁を上る。そこで本編の語りは途切れる。

仕返しを予告した翌月十六日ではなく、その前の訪問者に向かって従者が動いたところ。つまり、読者が待っていた次の事件へ入る前に、道がなくなるような止まり方になる。

冒頭へ戻ってみよう。暗い階段や崖沿いの道の先に、進める場所がなくなる感覚が置かれていた。その呼びかけを読んだ後に、この場面で続きを渡されなくなる。前後を並べると、単に説明が足りないという感想から、読む人が足場を失う構成として考えられる。

ここで怪談が途切れたら、語り手も消えて終わりなのか。そこは違うよ。語り手は、古い物語がここで止まったことを告げ、残りの話を持っていた頭脳はもう存在しない、と述べる。そのうえで、いくつかの結末を想像できるが、自分では決めず読者に考えてもらう形で閉じる。

この「想像できる」と「実際に結末が伝わっている」は、分けておきたい。従者が最後にどうなったのかを断言するあらすじを見たら、原文と別の翻案を混ぜていないか、どの版の話かを確認しよう。この記事が読んだ原文では、その後の生死や決着は示されない。

飲み込まれた魂がどうなるか、という問いを語り手が読者へ向ける。ただし、その問いの言い方から、作中の顔の由来や身元がすべて解明されたと考える必要はない。顔はなぜその茶に現れたのか、なぜ従者の前だったのかなど、語られていない部分も残っている。

読み終えた後、続きを考えるのは楽しみ方の一つ。でも、原文に書いてあることをメモした欄と、自分が想像したことの欄を分けてみよう。例えば、三人が壁を上ったのは本文の出来事。その後に従者が待ち伏せしたという案は、もし考えたとしても自分の続きになる。

こうして分けると、考える楽しみが狭くなるどころか、どの空白を使って想像しているのかを見つけられる。主人の傷について考えるのか、翌月の予告について考えるのか。残っている問いのどこに自分が目を向けたのかが分かるんだ。

日本語版で読み直すなら、場面を飛ばして結末だけ探すより、茶屋の試し直し、屋敷の来訪、家の三人、最後の語り手という順に追ってみて。翻訳によって語句や題名の表記は変わるので、英語の一語と日本語の一語を無理に同じ形へそろえる必要はないよ。

友達と作品の感想を話すなら、正体は何だったかだけでなく、どこで従者の行動が変わったかを聞いてみる案もある。飲む場面が気になった人と、三人が来る場面が気になった人では、同じ作品でも話したい点が変わる。実際に交わした会話としてではなく、読書後の話題の提案だよ。

別の八雲作品を続けて読むときは、怪異の正体が明かされる話なのか、人物が生き残った後まで語られる話なのか、今回のように先が渡されない話なのかを比べてみよう。すべてを同じ怖さでまとめず、語りがどこまで進むかに注目する読み方を持てる。

「茶碗の中」の読み直しで、まず見たいのは二つ。従者が器と茶を替えても顔が消えず、自分から飲むこと。そして、仕返しの日を告げられたのに、そこまでの話は渡されないこと。

その二つを見た後で、冒頭の道と末尾の語り手へ戻ろう。そこで止まるのか、と驚いた場所にも、読む前から手がかりが置かれている。今度は最初の段落から最後の語り手まで、途切れ方ごと一緒に読んでみようね!

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この記事を書いた人

うわさと事実を分けながら、都市伝説の由来や文化的背景を調べて紹介する編集部です。

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