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不思議な絵を、力ずくで持ち帰る。ところが開いてみたら真っ白。
ええっ、さっきまで描いてあったのに! 小泉八雲の「果心居士」は、この掛物、つまり壁などに掛ける絵から、話が大きく転がっていくよ。
果心居士(かしんこじ)は、ここでは仏教の絵を見せて暮らす、不思議な技を使う老人。奪えば絵が消え、お金を払うと戻る。でも、最初と同じには戻らない。 この順番を見ると、ただの手品比べとは違う面白さが見えてくるんだ。
以下は結末まで触れるよ。Open Shelf公開の本文を最後まで読んだ作品の考察で、幻術が史実だったという説明ではないよ。
百両は、絵を手放したあとの暮らしのお金でもある
果心居士は地獄の責め苦を描いた掛物を人に見せ、説き聞かせて、お金を得ている。地獄絵は商売道具でもあるんだね。
織田信長が絵を欲しがると、老人は黄金百両を求める。絵がなくなったら暮らす手段がなくなるから、別の商売を始めたい、と。
ここ、先に覚えておきたいな。
あとで家臣の荒川は、百両を求めた老人を欲張り扱いして襲う。でも読者は、すでに老人の事情を聞いている。高いか安いか以前に、相手の生活ごと奪おうとしているんだ、と読めるよね。
白紙だった絵は戻る。でも、生々しさまで買えたわけではない
荒川が奪った掛物を信長の前で開くと、中は白紙。その後、果心居士は再び現れ、優れた絵には魂と意思がある、と説明する。
これは作品の中で老人が語る説明だよ。絵が消えた仕組みを、現実の現象として証明したものではないんだ。
百両が支払われると、絵は現れる。ただし、最初ほど色鮮やかでも、生きているようでもない。
お金を払って決着、にはしてくれない。 老人は、最初の絵には値を付けられず、いまの絵は支払った金額に相当するものだ、と返すんだ。
私はここを、持ち主になれば見え方まで全部手に入る、とは限らない場面だと読む。紙を所有することと、その絵が生きて見えること。その二つがずれるのが、じわっと効いてくるよ。
最後は、見る側だった人たちの部屋へ水があふれる
終盤、明智光秀の前で果心居士が見せるのは、屏風に描かれた舟。屏風は、折りたたんで立てる仕切りの道具だよ。
小さな舟が近づき、絵の水が部屋へあふれ、老人は舟に乗る。舟が遠ざかると水は引き、果心居士も姿を消してしまう。
最初は、絵を眺める人と眺められる絵が、ちゃんと分かれていた。それが最後には、眺める人の足元まで水が来る。うわ、そこまで出てくるのか。
読み返すなら、絵が消える場面だけでなく、誰が絵を持とうとし、誰が絵の外へ出入りできたかを追ってみて。百両のやり取りも、最後の舟もつながって見えてくると思う。
日本語の本では、新潮社『小泉八雲集』の目次に「果心居士のはなし」が載っているよ。上田和夫訳の収録本を探すなら、書名と訳者を合わせてね。
白紙になったところで終わらせず、最後の小舟まで。あの老人、欲しがる人の都合だけでは、最後まで動いてくれないんだね。